「翠咲(すいしょう)、翠咲君、欲しいものを一つあげよう」
「欲しいもの?」
「我等が与えられるものなら、一つだけそなたにやろうぞ」
「なら、」
「但し、我等から離れることは出来ぬ。これは全て定められていることゆえ」
「さぁ、何が欲しい?」
「うちが、欲しいものは…」
『転 夜駆ける朱(あけ)・其の参〜拾漆〜』
山吹はぱきりぱきりと指を鳴らすと小さく舌なめずりをした。
(さあ、あたしの相手はどなた?)
未だ視ぬ相手を想像し、先制の一手を思考する。同時に脳の片隅で宗明の聡い従者の未来(さき)を視る。体制を低く構えながら視えた情景が先と換わらぬことに安堵した。
『もう、間違うことは赦されない』
かつて総てを失った時のように、掬いだしてくれる者など、もう、いないのだから。
間違ってはいけない。そこに感情など必要ない。大切なのは受け容れる覚悟と、冷徹な判断力と、揺るがない意志。
唯一つを手に入れるための、何物にも侵されない意志。
総てが彼女の台本通りに進んでいることを確認して、山吹はスゥと息を吐いた。記憶を風化させぬために、常に心に留め置くために、遠い昔に想いを馳せた。
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さっきは曖昧にはぐらかしたが、山吹にはひとつだけ、全く視ることができないものがあった。
自分自身である。
正しくは『自分が主立って関わる事象』なのだが、それこそがかつて山吹――壱光(いつみつ)――が当代随一の六道見子と謳われた由縁であった。多くの場合、誰もが一番見たいものは自分自身の未来である。そしてその願望の強さは予見結果に影響を及ぼしやすく、正しく予見できないことも多くなる。将来に全くと言ってもいい程興味のない者など極めて少数に限られるが、その少数派であった壱光は天性の素質や血統、精神嗜好やその他の外的要因から今昔万里総てを見通すまでの才を開花させた。
何故なら彼の興味は終焉の色だけにしか向いていない。
そのためには彼はどんな仕事も厭わない。彼が守る必要のあるものなどその狂気に等しい願望以外にないのだから。全て失った。否、何も持ってなどいなかった。視界に入るものなど闇の冥さと紅蓮だけ、吐き気を禁じ得ない生臭い腐臭と柔らかいのか固いのかわからない曖昧な冷たい骸しか知らなかった。先を視るためだけに紗を掛けられ御簾で覆われた輿に載せられて戦場を移動するだけの日々。倦んだ日常を送り、用がなくなれば打ち捨てられる、そんな歪な何不自由ない生活を与えられることでしか生きることもできなかった。
自己など不用だった。
必要なのは甘受する、媚びる、解諦する精神。
(それ以上は重過ぎる)
鎖で雁字搦めにされ、籠に結び付けられたその身には飛び立つだけの気力も無い。飼われるためだけに生まれ、仮初の慈悲を与えられ、囀ることも羽ばたきのひとつも許されぬそんな閉塞した世界。自己の意思を持ち、反発することなど愚の骨頂でしかない。それならばどうしたらいい?
(受け容れてしまえばいい)
(そういうものだと諦めてしまえば、理解してしまえば示される道など一つしかない)
(逃げることなど叶わないのだから)
(限られた世界の中で生き延びるために、取り入り利用すればいい)
しかし彼は決して傲慢にはならなかった。淘汰の対象になってしまえば彼は無力であった。いくら先が視えたとて力が無ければ生き残れない。
彼は視えた事象を多く語らぬことを覚えた。断片的な内容を言葉少なに、しかし的確に、且つ幾多の解釈の余地を残して伝えることで自身の神秘性を高め、より一層の干渉を避けた。だがそれは自身を護るためには有効な手段ではあるが、彼は幼かった。身も心も、何よりその短慮な思考が。
そんな中で突然もたらされた不自由ばかりの自由は彼を酷く戸惑わせた。自分のことが視られないのは随分前に識っていた。しかし、彼はその出来事を予見出来なかった。
幻に魅せられていた。否、幻を観せられていた。自分自身に。
まばたきのうちに昼夜が入れ替わってしまうように見えているものが換わってしまった。そして経験したことのない不測の事態に戸惑ううちに、何もかもが終わっていた。
独りに、なっていた。
直後のことは覚えていない。深窓の令嬢が如く纏った煌びやかな襦君を引き摺り、柔らかな長い髪を解れさせ幽鬼のように森を彷徨った。当時、華奢で黙っていれば娘と見紛う容姿をしていた壱光は数日の絶食で見るも無惨に痩せ細り、細い手足を棒きれのようにして行き倒れた。そんなところを年若い坊主に保護され、己の生きるべき道を教わった。結局その道通りに歩むことはなかったが、人生に於いては必要なことであったと感謝している。おおよそ一般人としては生きて行けなかったであろう壱光を根気よく矯正してくれた。それがなければこうして終焉の鍵である二人に関わることも、そも終焉に立ち合うことも適わなかったであろう。
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今の幸福を手放すことは赦されない。かつての己―壱光―に誓ったのだから。
今となれば、あの日視違えた情景は自分自身の閉塞された日々に倦んでいた神経が見せた幻だと理解出来る。しかし、別のものも理解してしまったのだ。自分が何より望んでやまないものは、決して独りでは手に入れることは出来ないのだと。
信頼、仲間、温かな日常。いつか必ず失わなければならないものならば尚更、今この瞬間にも手放すことは出来ない。
未だ、今は。
ありとあらゆる幸福に類するものを手に入れなければならないのだ。
己のためだけに。
それは彼女の何を捨てても守る価値があった。彼女が生を終えるその瞬間まで。
(まだ早いわ)
強風に簪を鳴らし、長家の陰から現れたのは山吹が見知った女だった。
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090227 第1稿
背景画像 冬風素材店 様
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