彼の者は狂気に染まりし瞳に何を映すのであろうか。
『転 夜駆ける朱(あけ)・其の肆〜拾捌〜』
「貴女、手鞠屋の………京チャン」
山吹は驚愕に目を見開いた。京は宿で彼らを世話してくれた仲居である。
「ここに居るってことは、泥棒は貴女ね?」
充分に間合いを取り、警戒しつつ問い掛ける。しかし京は酩酊したような千鳥足で、とても答えられるような状態ではない。据わらない首は歩く度にガクガクと揺れ、挿した簪がシャラシャラと音を立てた。フラフラと覚束ない足取りで歩む度に着物の裾が乱れて白い脚が覗く。だからといってそれが山吹の動揺を誘うことはなかったが、草履どころか足袋も履いていない素足は土にまみれて赤く擦れていた。
「京チャン?」
訝しむ山吹の前で京が崩れ落ちた。まるで糸が切れたように全身から力が抜け、膝を強かに打ち付けたところで山吹がその肩を抱いて受け止めた。
「貴女…」
京の身体は熱かった。呼吸は浅く速い。目もぼんやりと焦点が合わず、殆ど見えていないようだった。
「たす…けて。あ、つぃの…」
縋るように見上げてきた京の目は金色に輝き、黒目が大きく開いている。
「………京チャンじゃないわね?」
京の瞳は殆ど黒に近い茶色だ。
「にゃっ!?そん………な、こと」
「………髭が、見えていてよ?」
山吹の言葉に、京は慌てて自らの頬を撫でた。
が、その手が髭に触れることは無く。
「騙したわね!」
「あら、人聞きの悪い。カマをかけたのよ」
「自分に都合のいい解釈してるだけじゃないさ!」
「世間の荒波を生き抜くにはそのくらい要領よくなきゃいけないのよ」
山吹は(どす黒い空気を漂わせながら)にこやかに微笑むと、京の背を撫でた。
「あ?」
京が小さく声を上げると、パチンという音と共に何かが彼女から弾き出た。同時に京の身体からは完全に力が抜け、今度こそ山吹の肩に凭れ掛かる形になった。
一方、京から弾き出された毛玉はむくりと起き上がると頭を左右に振った。小さな三角耳がピロピロと揺れる。
「にゃにすんのさ!」
尾が二本に割けたその猫―――猫又は金色のつり上がった目を山吹に向けた。しかし、どこかトロンとしたその目は些か迫力に欠けている。
「何って、あんたをこの子から外したのよ」
そう言って京の背に貼り付けた札を指し示した。
「!!ちょっ…外しにゃさいよ!」
猫又は明らかに動揺して声を荒げた。
「甘いわね。この状況でそんなことすると思って?」
山吹は挑発的に笑う。
「いいから外せ!さもにゃいと」
「さもないと、何かしら?」
「こうだ!」
猫又は体を低く構え、後肢に力を込めて勢いよく踏み切った。地面を蹴った前肢を振りかぶり、勢いに任せて山吹を切りつける。ザクリと長く飛び出した爪が地面に突き刺さった。
「あっ…ぶないわね」
京を俵抱きにして猫又の攻撃を回避した山吹は、空いた手を付きしゃがみ込んで冷や汗を浮かべ呟いた。
「危ないようにしてんだから当たり前じゃにゃい。怪我したくにゃいにゃら京をはにゃしにゃさいよ」
キラリと鋭い爪を光らせて猫又は山吹に言い放つ。
「くっ…卑怯な」
「あっはははは!おとにゃしく京を離せ!」
猫又は勝ち誇ったように笑った。
「…なんて、私が言うとでも?」
山吹はニタリ、粘着質な笑みを浮かべてゆっくりと立ち上がる。
「甘いわ。ていうかあんた馬鹿?」
「にゃ?」
「人質取られておいて、いくらなんでもそれは無いわ。愚鈍の極みよ」
山吹は如何にも憐れみの込もった目を猫又に向けた。
「どういう意味?」
「さぁ?攻撃してみれば判るんじゃない。頭の足りない馬鹿猫さん」
明らかに馬鹿にしきった口を利く山吹に、猫又の中の何かが音を立ててブチ切れた。
「いーーーーっ!……もう、許さにゃいわ!」
猫又は爪を伸ばして山吹に飛びかかった。
「ほら、そうやってすぐ挑発に乗って」
猫又の鋭爪の乱れ打ちをのらりくらりと受け流し、山吹は言い聞かせるように言葉を紡ぐ。批判一方の猫又はそれだけで頭を沸騰させ、もはや冷静な思考が出来る状態ではない。完全に頭に血が上っている猫又を見て山吹が笑う。
それすらも計画通りだと。
至近距離での攻防に終止符を打つべく、山吹は一足跳びに大きく退いた。それを追って猫又も深く踏み込み、体制を変えられない山吹の懐に狙いを定め飛び込んでいった。
+++++
「くそっ!何で入れねえ」
「きっと宗明は邪念が多いからだよ」
憤る宗明を燐がからかう。
「じゃかぁしい!巫戯けてる暇が有るなら考えろ!」
「だぁってさぁ〜」
事態は数分前に遡る。
「結界だ…」
「結界?」
宗明が前に手を伸ばすと、何も無い筈の空間でパチパチと小さな稲妻が弾けた。
「何?これ…」
「咲、だな。鬼の妖力圏か」
「じゃあこの中にお咲ちゃんが?」
「そうなるな」
「ほう?では、鬼を捕るにはそこを通ればいいわけですか」
二人の背後からクスクスと押し殺した笑い声が響いた。宗明はぐるりと振り返ると、その男を見て眉を寄せた。
「あんたは…」
その白髪の壮年男性―――兼若は顎に手を当てて、弛み始めた皮膚を撫でながら笑った。
「その結界はどうすれば抜けられるんでしょうね?」
「この先に何の用だ?」
威圧的な態度を崩さず、宗明は問い質した。
「私の質問には答えて頂いていませんが、まぁいいでしょう。鬼退治をしようと思いましてね」
「え」
その答えに燐は目を丸くした。
「それで?あんたは何者だ?」
「ただの薬師ですよ」
笑顔のまま答える兼若に、燐は俯きぼそりと尋ねた。
「………ん、は?」
「ああ?」
あまりに弱々しい響きに、その呟きを聞き取れなかった宗明は頭上を睨み付けた。
「蘭、は?蘭はどうしたの?」
キッと顔を上げ、涙を浮かべながら燐は力強く問い掛けた。
「蘭?……ああ、あの男前の彼のことでしょうか。彼なら、血まみれで…」
「そん、な…」
ニヤリと笑う兼若を前に、燐はくたりと躯を弛緩させて宗明に凭れた。
「いい加減教えて頂けませんか?その結界を抜ける方法」
「っ誰が!」
「そうですか。なら、仕方ない」
兼若はダッと勢いをつけて前方に突っ込んだ。体の衰えなど微塵も感じさせないそのキレに燐と宗明は目を剥いた。そして兼若は二人の横を風のように通り抜け、突然立ち止まった。草履が砂を踏みしめ、ザリッと高い音を立てる。
何事もないことに驚き、宗明は勢いよく振り返った。
「おや?」
兼若はわざわざ振り向くと、無事を強調するために腕を広げてとても可笑しそうに嗤った。
「何も無いようですねえ」
「な、に?」
「それでは、ご機嫌よう」
兼若はくるりとその身を翻し、笑顔で走り去った。
「おい、ちょっ、待て!」
宗明は慌てて後を追い、駆け出した。
が、
通り抜けたのは燐だけ。宗明は結界に弾かれてしまった。
「あっ、わぁっ!」
「えぶっ!」
盛大に放り出されながら、空中でくるりと回転して地面への激突を免れた燐は、体勢を整え宗明を振り返った。
「宗明っ、何これ!?」
「〜〜っ、そんなん俺が知りてえよ…」
後方に大きく弾き飛ばされ尻餅をついた宗明は、上体を起こすと右手で押さえた頭を振りながら立ち上がった。彼を通そうとしない結界に手を突き、押してみるがその手が沈むことはない。
一頻り試して、冒頭に至る。
「だってほら、私なんともないよ」
燐は事も無く宗明に駆け寄ると首を傾げた。
「おまっ、何で出てくるんだ!?」
宗明はギョッと目を剥いて燐を怒鳴った。
「大丈夫だもん。私は」
「根拠もねえくせにか?」
「そうだよ」
「チッ」
忌々しげに舌打ちして宗明は顔を逸らした。
「でもさぁ、なんで宗明は入れないのかなぁ?」
「そんなの知るか。入る方法を探すまでだ」
宗明は札を三枚取り出すと三角形を成すよう地面に配置した。
「帝台 勾陣 文王 三(みつ)御名に拠りて喚び寄せ給へ 鵠青(こくしょう) 纏仁(てんじん) 万堝(ばんか)!」
宗明が片手で札を指し、もう一方で印を結びながら請言を唱え上げると、札を依代(よりしろ)に鳥と狼、猪の妖が現れた。頭の青い鶴のような姿の妖が首をもたげて宗明を見上げた。
「おや?坊ちゃんとは珍しい。また面倒事ですか」
はあ…、と溜め息を吐くような仕草で鵠青は宗明を睨め付けた。
「まあ、私たちは安倍のお家の中でも力のある方ですから?ぁっ、」
「鵠青ねえさんっ!」
嫌みっぽい弁を振るう鵠青の長い首に燐が飛びついた。頭を揺らされて鵠青は目を回した。
「この…女狐ぇ。おや?どうした、ちんちくりんじゃないか」
「あはは、」
「はぁぁん、つーまーりぃ、このちんちくりんじゃ役立たずだから私たちを喚んだと?そういうことですわね」
「まーそんなとこだ」
宗明は気持ち生返事で目を逸らした。嫉妬と僅かな羨望と優越感に晒されても、宗明が得るものは何もない。
「で、何をすればいいのだ?坊主」
砂色の狼――万堝が尋ねた。
「結界を破ってほしい」
「左様。しかし、どこに結界が?」
万堝は頷いたが、すぐに伺うよう宗明を上目に見た。
「なに?」
「我らの目には捉えられんようやのぉ」
ふるふると頭を振って赤褐色の猪が言う。ガツガツと地面こそ蹴ってはいるものの、興奮している様子はない。
「なんだと?」
「結界なんて無いんじゃないの?」
「そんな訳があるか!現に俺は」
宗明は咲の結界に背を預けて凭れ掛かった。稲妻を散らしながら空中に止まる宗明の姿はなかなかに異質だ。
「こうして弾かれてんだぞ!」
「そうなんだよね〜」
「いいから!お前ら!」
「「「御意」」」
三体は勢い良く障壁に向かって行った。しかしその足取りを止めるものは無く。砂塵を巻き上げて結界内で立ち止まると、バシッと弾けて消えてしまった。
「へっ!?」
強力な三体が消え、燐は間抜けな声を出した。
「なんで!?」
混乱する燐を余所に、宗明が結界際で三体を確認すると、依代の札は細かく千切れていた。
「……札では足りないのか」
宗明はそれなら、と呟くと燐を呼ばわる。
「なに?」
「頼みがある」
膝を衝き神妙な様子の宗明に燐は笑った。
「どうぞ、旦那様」
「お前の」
さらりと流れる黒に手を伸ばし、顔脇の髪を掬う。
「髪を一房くれないか?」
小首を傾げて問う宗明に、燐は息を詰めた。性格はどうであれ、顔だけはいいのだ。殊、安倍の人間は。
「っ…!」
燐は思わず頬を染め、目線を逸らした。
サクッ
軽い音と共にはらりと横毛が燐の頬を掠めた。驚いて目を戻せば、小刀と見慣れた色の毛束を持った宗明がそこにいた。
不自然に短くなったそれと、宗明の手の中のものから推して図るに。
「って、ぁあああ!」
「燐、五月蝿い」
「なに勝手に切ってんの!?私いいなんて一言も言ってないのに!」
ほとんど泣いているような状態の燐に辟易しながら宗明はその小さな肩に手を置いた。
「燐」
「沈黙は肯定だろ☆」
至極真面目な顔で言い放った宗明に、燐は顔を真っ赤に染めて彼の手を振り払った。
「巫っ戯けんな!この青二才が!」
燐が声を荒げて宗明を睨み付けるが、当の宗明はどこ吹く風。全く意に介さず立ち上がり、再び式を召喚しようと切り取った髪を紙縒(こより)で束ねた。
「まあ待て。文句なら後で…」
片手間に燐を振り返り爽やかな笑顔で返そうとした宗明の足に尋常ならざる衝撃。スパァンと小気味良い音を立て、燐が宗明の向こう脛を黒扇で振り抜いたのだった。
「っくあ…っ!お、お前」
「お返しだもん。女の髪は命なんだから」
崩れ落ちた宗明に、燐は酷く満足気に微笑んだ。
++++++++++
090603 第1稿
背景画像 冬風素材店 様
←PREV・17 / NEXT・19→