《娘ェいい加減その躰を寄越せ》


冥い闇の中に浮かび上がる紅い眼がぎょろりと咲を見詰める。咲は静かに目を閉じ、柳眉を寄せた。


「…厭や。だって、ウチ死んでしまうんやろ?」

《何故そう思う?》

「心が死んでしもたら、それはもうウチやない。ウチはまだ何一つ伝えておらへんのに」

《…何が言いたい?》

「ちゃんとお別れさせてくれるんなら、」

「…ええよ」


影はゆらりと歪んで娘を呑み込んだ。





走る。
疾る。疾る。
宗明は走る。
人波をすり抜けて、妖気渦巻くその中心へ。
咲が待つであろうその地へ、走る。

走る。
迅る。迅る。
山吹は走る。
猫を追いかけ、囚われた彼女を救うため。
自らが定めた約束を果たすため、走る。

走る。
駆しる。駆しる。
蘭は走る。
小さな燐を背負い、忌まわしい敵を追い駆ける。
総ての調和を取り戻すため、走る。



『転 夜駆ける(あけ)・其の一〜拾伍〜』




+++++




「私が視るのは破滅だけよ」


目を細め、蘭を見据える山吹。蘭はごくりと咽喉を鳴らした。


「破滅…」

「誰も…誰も死んだりしないよね?」


飛び交う負の単語に不穏な匂いを嗅ぎ取った燐は、蘭の腕にしがみついて山吹に問い質す。


「…………さぁ?」


薄く嗤う山吹の後ろでドオンと、雷のような花火のような音が響いた。膨れ上がった妖気が爆発したのだ。瞬時にガバッと蘭が立ち上がる。周囲を見回し、北東のある一点を見詰めた。


「宗明…不味いよ、全部混ざって…!」


カタカタと震え上がり、冷や汗が全身から噴き出す。燐に触れる指先が凍えて痛みを訴えた。あの時、ただただ躯全体が重いばかりだったのは自分の感覚が幼かっただけなのだと漸く理解した。


(こんな状態でなにが守ってあげるなのか…)


蘭は後悔した。浅はかなことを口走ったと、自分ではなく燐を余計な危険に晒すのではないかと、深く考えずに口に出した自分を呪った。それは決して自分の言葉に覚悟が無かったという意味ではないが、蘭の自信をこそぎとるには十分過ぎるほどの質量の妖気であった。


「蘭」


燐が震える蘭の手を取る。小さな手だと思う。しかしその柔らかさや暖かさが蘭の不安を取り去るのは簡単だった。


「大丈夫?」


一人ではないと思い出させてくれる。


「…うん。大丈夫だよ」


蘭は笑う。いつだってそう、隣には燐が居る。それだけで彼の世界は救われる。
蘭は小さな燐の手を握り返した。


「イッコー!東を開けろ!」


宗明が叫んだ。言われるまでもなく、山吹は東の雨戸を開け放ち窓の外へ身を乗り出した。季節外れの生暖かい風が吹き荒れて、山吹のきれいに切りそろえられた髪をバラバラに巻き上げる。乱れる髪を押さえつつ、北東に目を凝らす山吹は声を張り上げた。


「妖気が集まってる場所があるわよ!風もそっちに吹いてる!」

「何か見えるか!?」


自分も窓の外に身を乗り出しながら宗明が尋ねる。


「こう暗くちゃ何も見えないわ…」

「ちょっと待って!」


蘭が声を張り上げる。


「どうした?」

「火事だ…!!まだ小さいけど」

「何だと?場所は!?」

「北側!」


蘭がそう言うと同時に半鐘が鳴り響いた。


「イッコー、見えるか!?」

「見えないわ!まだ広がってないみたいよ。でも人が多すぎるわ」


北から悲鳴が響いてくる。吹き戻る風に乗って火の粉が舞い散っているようだ。ばたばたと長屋から人々が飛び出し、あっという間に通りを埋め尽くした。


「半鐘のせいだな…ちっ余計なことしやがって」

「人間なんだから仕方ないだろ?」


そうでもしなきゃみんな焼け死んじゃうじゃないか。蘭は至極全うな意見として宗明に言い放った。宗明は首だけを回して目を細め蘭を睨んだが、すぐにふいと外の様子を伺った。そんな中、山吹は下を見下ろし声をあげた。

「あら?あれは…」

「なんだ?」

「同心の輩かしらね。北の方に行くのよ」

「ァアン?火消しじゃねぇのか」

「さあ?出た方が早いわ」


なにやら煮え切らない物言いをする山吹に訝しげな視線を宗明が送ったとき、蘭に引っ付いていた燐ははたと思い出したようにその大きな瞳をくるりと回し、呟きながら指折り何かを数えていた。そのうち蘭の手を離し、片手で頭を押さえながら「え?え?」と困惑したように数を数え直し出した。それを三回程燐が繰り返す頃、足元から聞こえる微かな狼狽の気配に気付いた蘭は燐にどうしたのかと問おうと腰を屈めた。
すると、見る間にさあっと燐の顔色が青くなり、両手を頬に当て絶叫した。


「ああ〜〜〜〜っ!!」

「何だ燐五月蝿ぇぞ!」

「ふ、ふ、吹姐!今日が三日目だよ!?」

「咲が消えてからでしょう?何を今更…」

「そうだけど違くて!ほら、泥棒捜すって!三日って言ったの吹姐だよ?」


双子が窃盗犯の疑いを掛けられ巻野屋の伊崎と三日で真犯人を見つけるという約束をしてから数日。今日がその三日目であった。しかし時刻はもう夜といっても差し支えない程に過ぎていて残った時間など殆どありはしなかった。


「……………………あー。そうね」


山吹は自分の言葉を思い出すべくぐるりと右上に目を回し、確かに約束をしたことを思い出し目を閉じた。


「え?ちょっとどうするのさ?」

「そんな心配しなくても夜明けまでに見つけるわよ」


フンと鼻を鳴らし、窓の枠に座り直すと一抹も興味が無いように山吹は肩を落とした。その仕草に双子は内心溜息を吐いた(態度に出してしまえば恐ろしい結末が待っているような気がしたのだ)。


「グダグダ言ってる暇があるなら行くぞ!急げ!」


気だるい雰囲気に包まれている山吹と双子を振り返り、いち早く通用口の襖を開け放った宗明は一同を叱咤すべく声を張り上げた。





バタバタと喧しく宿を飛び出し、宗明は鬼門方向に目を向けた。地面に近いせいか、先程よりもはっきりと(しかし未だ巨き過ぎるが故に薄ぼんやりと)力の輪郭を捉えられる。


「蘭!見えるか!?」


ヒョイと一跳びで長家の屋根に跳び乗った蘭は北側に目を細める。


「火事が広がってきた!思ったより渦に近いみたいだ!急がないと!」

「案内しろ!」

「(偉そうに!)っ、遅れんなよ!」


蘭が屋根伝いに駆け出すと、それを追いかけ宗明が走り出した。そして山吹と燐が続く。


「ちょっと待ってぇ!」


が、当然体格の違う燐が同じように走れる訳もなく。


「う、ひゃあっ!」

「お黙り」

「んっ、」


グイッと後衿を掴まれ、燐が放り投げられて着地したのは山吹の肩の上。俵抱きに抱えられて漸く宗明に追いつく。


「次は右!」


蘭は屋根の上を器用に渡りながら、人の少ない道に巧みに誘導していく。

が、

見知った後ろ姿を見つけて立ち止まった。くるんと前方宙返りで地面に降り立つと胡乱にその背を睨んだ。


「おい、」


どうした?と訝しむ宗明を片手を挙げて遮り、蘭はその背に問う。


「兼若、先生?」


ピタリ、彼は一瞬歩みを止めて振り返った。柔らかな笑みが蘭を捕らえる。暗がりに浮かんだ蘭の姿に目を眇め、口を開いた。


「どなたでしたかな?」


チッ

蘭は舌打ちした。


(成程、この姿ではわからないのか)


兼若と面識があるのは燐と蘭と咲だが、咲はここには居らず、双子の姿も兼若の知るものではない。


「いえ、宿でお見かけしましたもので。向こうは火事のようですが、先生はどちらへ行かれるのですか?」

「私は向こうに用があるのです。怪我人がいるというなら私にもお手伝いできることもありましょうからな。しかし、お言葉を返すようですがあなた方はどちらへ?」

「我々は…」


相手を問い詰めることで頭がいっぱいだった蘭は、問い返された時のことを考慮に入れておらず、言葉を詰まらせた。


「人を捜している。あんたは何か知らないか?髪を結っ、!☆?」


何も考えず、余計なことを口走ろうとする宗明を遮るように蘭の拳が宗明の顔面を打った。


(鬼を退治しなきゃいけないのに一般人がいたら邪魔になるだろ!?)


蘭は鼻を押さえて崩れ落ちた宗明を、信じられないとでも言うように冷たい視線で見下ろした。


「髪を?」


兼若は一瞬目を見開いて二人のやり取りを見遣った後、何事も無かったかのように蘭に続きを促した。


「か…、髪を飾る簪泥棒を捜しているんですよ。騒ぎに乗じて逃げられては困るので」

「ああ。確かにそんな窃盗犯がいるとか。まぁ、残念ながら私ではないですがね」

「ええ。女だそうですよ」

「左様ですか」


怪しい女を見掛けたら教えてくれるよう、にこやかな笑顔で兼若に頼んだ蘭は少し笑顔を切り替えて言葉を続けた。


「しかし、兼若先生?何も持たずに行かれるのですか?」

「何も、というと?」

「火傷の軟膏や傷薬なんかはお持ちにならないのですね」


動き易い様にであろう、兼若は未だ肌寒い初夏の夜にも拘らず羽織も羽織らず、薬医の持ち物であるはずの薬箱すら持ってはいなかった。


「現場で治療は出来ませんからね。それに今夜は風が強い。火の勢いが強くてはどうしようもありませんから、先ずは安全な場所に移動させるのが先決ですよ」

「成程、その通りですね。しかし、避難が終わったとして手元に薬が無ければ治療のしようが無いのでは?まさか宿まで取りに戻るわけではないでしょう?」


それともこの距離を走るのですか?と蘭は問う。


「いやいや、まさか。いくらなんでもこの距離を往復できるほど私は若くはありませんからね、優秀な連れがついているのですよ。彼らに手伝ってもらえば無理ではありませんよ」


兼若は笑みを深める。


「彼ら、とは?」

「すぐ近くにいますよ。ほら、」


兼若が両腕を広げると、彼の後ろから闇に紛れて黒い犬が五匹姿を現した。それを見とめると蘭は薄っすらと、兼若に判らないように目を細めた。


「随分賢そうなお連れですね。いや、よく躾けてあるとお見受けします」

「いやいや、まだまだ言う事を聞かせるので精一杯ですよ」


犬たちは蘭に向かって呻り声を上げていた。牙を剥き出して今にも飛び掛かりそうなようすで、うろうろと兼若の後ろを歩き回っている。


「ところで、」

「はい?」

「こんな所で道草を食っていても宜しいのですか?怪我人を助けに行かれるのでは?火傷は一刻を争うと耳にしたことがありますよ」


蘭は、微笑みを浮かべながら全く動こうとしない兼若に訊ねた。


「ええ、仕事が増えたようなのでそちらを片付けてしまった方が良さそうなのでね」


微笑んだまま、兼若がピュイッっと口笛を吹くと大きな黒い犬たちは待ってましたとばかりに蘭めがけて兼若の後ろから飛び出した。






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081228 第1稿

背景画像 冬風素材店 様



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