霞立つ 春の長夜に 咲く花の
霞と消ゆるは 恋し君かも
『転 霧霞(きりがすみ) 〜拾壱〜』
娘は僅かに悔しさを滲ませた笑顔で会釈をすると、数歩後ろに控える若者の方を向いて首を振った。高い位置で一つに括った艶やかな濡れ羽色の長い髪がふるふると揺れる。凛とした空気を纏う闊達な表情も、どこか曇りがちで疲れが感じられた。
「吉乃、少し休もう」
若者は娘の肩に左手を載せ、やや俯けられたその顔を覗き込んだ。
「駄目よ、吉良。まだ一時も経っていないわ」
若者の手を払いのけ、娘はその脇をすり抜けるべく足を進める。娘が脇を通り過ぎると、若者は振り向きざまにその手を掴み引き止めた。
「放して。時間が無いのよ」
娘は引かれた腕を軸に振り返ると若者を見遣って息を呑んだ。若者の利発そうなキリリとした面立ちは固く、眉間に皺を刻んでいる。
「休むんだ。吉乃」
「だけど、」
「分かった」
若者は一瞬その場に沈み込むと、娘を横抱きに抱え上げた。広袖の膝丈法被を羽織り、半幅帯で腰を締め、中には晒しと猿股で如何にも祭装束のような娘を抱き上げる、やや着流し気味の着物の若者。それは衆人の目には奇異に映り、周囲の視線を独占している。
「え、や、らっ、何!?」
「君は自分を顧みなさ過ぎる。ここからは少し俺に従って貰う。それから、…俺は吉良だ」
脚をバタつかせて抵抗する娘を軽くいなして抱き込み、若者は足を進めた。茹だった顔を隠すように娘は若者の首にしがみつき、首筋に顔を埋めた。
暫くして若者が足を止めたのは茶屋の前。若者は軒先の赤布が布かれた長椅子に娘を座らせると、店の中へと姿を消した。
「なにもあんなとこで抱き上げなくてもいいじゃない…」
娘は赤く染まった顔を顰め、唇を尖らせて呟く。手持ち無沙汰に両手を椅子の縁に引っ掛け、下駄の爪先を浮き沈みさせた。その姿は全く以て不貞腐れる子供である。年の頃十七、八の娘がするには些か幼過ぎる仕草であった。一体どれほど没頭していたのか、娘は若者が戻ったことにも気付かない。
「吉乃」
「ん、ったぃ」
名を呼ばれて振り仰いだ先で、娘は額を硬い物にぶつけた。
「なに〜?」
娘は額を押さえて上目に若者を見上げる。若者は手にした器を娘に渡した。娘が両手を差し出して器を受け取ると、中には甘い香りのする黒い汁物。
「…おしるこ?」
「そ。それ食べて少し頭冷やすんだ。今焦ったってどうにもならない」
若者は僅かに目元を緩めて娘の頭をポンポンと叩くと、くるりと身を翻し隣に腰を下ろした。そして懐から煙管を取り出して咥えると火種を探した。
「あっ!だめ!」
「何が?」
娘に目もくれず、火種を探して懐や袂を叩く若者が咥えた煙管を娘が取り上げた。
「没収」
娘は若者と反対側の帯に煙管を挟んだ。若者は僅かに口を開いたまま言葉を失ってそれを見つめ、やがて一口湯呑みを啜って前を向いた。娘はそんな若者を横目で伺い、湯気の立つ汁粉に口を付けた。
なんとなく懐かしい気分になる味だと思い、娘はほうっと息を吐いた。
「ありがと。ご馳走様」
「ん」
「それじゃあ、」
「まだだ」
「え?」
「暫く従って貰うと言った」
若者の声は固い。有無を言わさぬ雰囲気に、娘は知らず喉を鳴らした。
「…なら、どうするのよ?」
「一旦引き上げる」
「引き上げる?」
どうしてと詰め寄る娘は、今にも若者に飛びかからんばかりだ。若者は少し身を引くと、頭上の格子窓に向かってお茶のお代わりをと呼びかけた。
「だってまだ手掛かりなんて殆ど…」
「この界隈はほぼ回った。でも手掛かりはほぼ皆無。なら一旦引き上げて対策を練り直さなきゃならない」
だろう?と首を傾げて同意を求める若者。娘は若者の方に両手を突いて身を乗り出したまま、若者を上目で睨み上げた。
「…そうだけど、でもっ」
「はい!おかわりだよ!」
食ってかかる娘の背後から給仕の声が掛けられ、娘は思わずビクッと肩を強ばらせた。娘がそろそろと振り向くと、そこには中年の女が盆に湯のみを二つ載せてにこにこと立っている。女は汁粉の椀と空の湯呑みを下げ、新しく淹れてきた茶を手渡すといそいそと奥へ引っ込んだ。娘は湯呑みを両手に包み込み、歯痒そうに揺らぐ水面を見下ろした。
「お咲ちゃんのことなら宗明がなんとかするだろ」
そんな物言いに娘は目を剥いて若者に顔を向けた。そして視線を固定したまま窺うように顔を伏せる。
「…なんか、いつものら…吉良っぽくないわ」
「そうか?」
「だっていつもならそれとな〜く手引きするじゃない?『あの宗明(バカ)が解る訳ないだろ』って」
若者は首を傾げ、肩を竦めて声真似をする娘を見て苦笑した。
「…まぁ、あんな啖呵切ったからな。それに今回は俺たちの手には負えないと思うんだよ」
娘は眉根を寄せて先を促す。
「さあ?ただ―――」
若者は顔を仰向けて茶屋の外壁に凭れ掛かり、そのくすんだ芥子色の双眸を塞いだ。
「音がするだけだ」
ぽふん、と靄が立ち込め、それが消えると同時に浮かび上がったのは初老に差し掛かろうかという二人の小男であった。
「これは、宗明様。お久しゅう御座います」
「お変わり有りませんでしたか?」
二人は二回り以上は年の離れた男に恭しく頭を下げた。
「ああ。おかげ様でな。お前たちも元気そうで何よりだ」
ニッコリと笑いながら宗明は二人に座るように促し、自分も胡座をかいた。
「儂らのような老いぼれがこうして在ることが出来るのも」
「総て宗明様の御尽力の賜物で御座います」
「一体なんだ?急に畏まって」
不審気に目を細める宗明に、男たちは笑みを深めた。
「いえね、あの不届き者共に正しい言葉遣いの手本をと思ったんですが」
「あの仔共らはいずこに?」
「出掛けてるんだ。悪いな」
宗明は苦笑を禁じ得ず、眉を寄せて口角を吊り上げた。
「そうでしたか」
「して、我々には如何なご用で?」
「ああ、ジジイと話があるんだ。それを中継して欲しいんだが」
至極真面目な顔でのたまう宗明に、小男たちは顔を見合わせた。
「それは構いませんが」
「少々口が過ぎるようですな」
「これでは童共を躾る前に」
「恐れながら宗明様にもお勉強して頂かなくては」
ニヤリと目元に陰を落として二人の小男たちは嗤う。その余りに凄絶な形相に流石の宗明もひんやりしたものが背中を伝うのを禁じ得ず、ゆらりとにじり寄ってくる二人を押し留めるように両手を突き出し、脚を正した。
「わ、解った!いや、解りました。お、御爺様に話があるので、それを中継しては貰えないだろうか」
ゴクリと込み上げる唾液を嚥下する宗明。そんな宗明をジト目で睨む二人の男。
「…」
「「…」」
暫し睨み合う三者。何とも言えない冷たい沈黙が居間を満たしていく。
先に折れたのは二人の方だった。
「宜しいでしょう。どうぞ我らのこの力、お使い下さい」
「済まない。恩に着る」
「『親しき中にも礼儀あり』ですぞ、宗明様」
そしてニッコリと、それはそれは慈悲深い笑みを浮かべると二人の小男は宗明にこう言い放ったのである。
「因みに、おおまけにまけて及第点ですので」
「精進を欠かさぬようになさいませ」
宗明はヒクリと頬を引き攣らせた。
その時の二人の顔は、笑顔を透かしてドス黒い色が浮かんでいたと、宗明は後に仏前に語ったという。
「ねぇ吉良、あれ」
娘は立ち止まり、隣を行く若者の袖を引いた。
「うん?」
若者は娘の指差す方を見遣り、ああと漏らした。
「吹姐さん!」
手を上げて辻道の左の大通りからやって来る紫色の頭巾の女を呼び止める。女は二人に目を向けると、抱えた荷物を持つ手を解いて小さく振った。そうして二人の前まで歩んで来ると、怪訝そうな顔をした。
「あんたたちそんな格好で出てたの?」
「姐さん。俺たちはこの格好だからこそ、外に出られるんですよ」
若者は苦笑して答えた。
「そうじゃなきゃ聞き込みなんか出来ないわ」
「あら、口調まで変えちゃって。それじゃお兄さん、お名前は?」
所帯じみた婦人の如く、山吹は目を見開いて二人をからかうように高い声を出す。それが何やら型に嵌りつつも演技らしさを失わないので、その妙に若者は溜息を一つ。
「…吉良」
「お嬢ちゃんは?」
「吉乃よ」
うんざりといった心境を隠そうともせず冷めた声で答えた若者に対し、娘は跳ねるような声でニコニコと答える。
「キラとヨシノね。分かったわ。で?そっちは洗えたの?」
もう三日よ、と言う山吹は包みを抱え直した。若者は肩を竦める。
「粗方ですよ。あの店以外には小物問屋の商品が荒らされただけのようですね。まあ、値段も二束三文程度の品だけのようですから、旦那方も大事にはしなかったそうですが」
「あの人がケチくさいだけよ」
娘が唇を尖らせるのに、山吹は一瞬呆気にとられた顔をし、そして柳眉を寄せて笑った。
「向こうも商売だもの。ピリピリもするでしょうよ」
若者も苦笑混じりに隣の肩の高さにある頭をポンと叩いた。むうと膨れた娘を見遣り、若者はところでと口を開いた。
「姐さんはどちらに?」
ああ、と山吹は風呂敷包みを見下ろした。
「人に会いにね」
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080808 第1稿
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