江戸の春夜は更け行き。



 二人〜拾〜』




 年嵩の二人が残された座敷には緩やかな静寂が満ちていた。ある者は残りの札を呪符にするべく書を認(したた)め、ある者は膳を下げにやって来た女中が替わりに持ってきた燗を手酌で嗜んでいた。だだっ広いばかりだった座敷には取り払われていた襖が再び設置され、それを隔てた奥の間には布団の用意がされている。それもやはり女中が整えて行ったものだった。


「なるほどねぇ…」


不意に山吹が呟いた。一瞬手を止めた宗明は目線だけで先を促す。


「いえね、大旦那様が何であんたに任せたのか理解出来ただけよ」


まるで酔いを促すかのように、かくんっと傾げた首をゆらゆらと振りながら山吹は言葉を切る。


「あんな符式見たこと無いもの」


それに因ってか、はたまた故意にか蕩けた目をした山吹はやや舌足らずな様子で言い募る。


「大旦那様でも…」

「やけに饒舌だな」


そんな様子の山吹を何と取ったか、宗明は冷やかすかのように言葉を遮った。冷酷なまでに冷静な、針のように眇められた宗明の双眸が山吹を射抜いた。


「…何を恐れてる?彼の六道見子(りくどうけんし)ともあろうお前が」

「………昔の話よ。大昔の」


 伊達に年を重ねているわけではない山吹は核心に迫るそ宗明の瞳にも動じず、ひらりと音がしそうなほど鮮やかに穏やかな眼を以ってそれを受け流した。そして挑戦的な視線で宗明を見据え、逆に彼を陥れるかのごとく隙を作ると手中の猪口を啜った。


「でも《視える》から咲に付いてるんだろ?」


晒された隙に掛かってか、若しくは付け入るためか、山吹の予想にほぼ添った形で宗明は問いを重ねた。
それは半ば確信的に。


「違うわ。《見えた》からよ。この上ない終わりがね」


返す言葉は的確に。
山吹は既に用意していた答えを与える。にっこりと何事かを企んだような、善からぬことを考えているかのような人を喰った笑みを浮かべて。つられて宗明も呆れたように息を吐いた。


「…はっ、成程。そりゃあ大違いだ。で?来たるべき終わりを阻止する為に付いてるって訳か。そりゃあ随分とご苦労なこった」

「あんたってどうしてそんなに早合点なの?あたしはあの最凶がどんな終わりをもたらすのかを見たいの」


咲の忠実なる僕は虚無的に嗤う。


「最凶、ねぇ…全くだ」


それに対して宗明は冷笑を浮かべて肯いた。


「あら?否定しないの?」


山吹は意外そうに目を見開いた。自分の女が貶められているというにも拘らず、と。


「事実は否定のしようがねぇからな」


何食わぬ顔で宗明は再び札を書きに戻った。その筆運びには一瞬の淀みも見えない。


「その通りだわ。でも可笑しいわね、そこまで解っているのにどうしてあの子を利用しないの?」


山吹は喉の奥でくつくつと呵うと宗明に問い掛ける。


「……………惚れた弱みと言っておこうか」


言い回しを考えていたのか暫く時間を取ったが、その間全く筆を止めること無く宗明は切り返した。


「あら随分と含みのある言い方」

「どうとでも」

「それは残念」

「……………近いのか?」


今度は宗明がおもむろに山吹に問うた。


「お前の予見は」

「まさか。あんなものを終焉だなんて呼ばないわよ」


小馬鹿にしたように山吹は鼻を鳴らした。しかし否定はしない。にたりと眼を眇めるだけである。


「事は起こるわけか」

「あたしの予見が必ず当たるのは、」


断言する宗明に被せるように口を開いた山吹。一息置いて、溜める。


「確実に起こることしか見えないからよ」

「……………成程」


宗明は心底愉しげにくつりと喉を震わせた。





「ねぇ、お咲ちゃん」


湯船に浸かった燐がぼんやりと呟いた。


「なぁに?」


ちゃぷ、と水面を揺らして咲は隣り合った燐に向き直る。拍子に纏め上げて軽く括っただけの長い髪が解けて湯に踊った。


「どうしてこっちに来たの?」


燐は苦笑混じりに咲の襟足に手を伸ばし、束ねてある髪を絞って再び纏める。


「さっき言うたやない。犬神が出たからやって」


おおきに、とニコニコと嬉しそうに咲は笑った。そんなあっけらかんとした様子の咲に、燐は不満に唇を尖らせた。


「うーんんー…。でも、本家の爺(じじ)様なら何とかしてくれたんじゃないの?」


ここよりずっと安全だよ。と続ける。


「そう、かもねぇ」


咲は肩まで沈んだ湯船の中で腕を伸ばし、上半身だけ伸びをした。そして笑みを浮かべたまま、僅かに眉を寄せると膝を抱えた。


「かも…って、爺様に何か言われた?」


驚いた燐は咲の顔を覗き込む。瞳の中に本心を見出そうとした。


「いいえ。なぁんにも」


しかし咲は笑みを浮かべるのみ。他には何も見えなかった。


「じゃあどうして…」

「何でかな。来なあかんような気ぃがしたから」

「ふぅん?」


言っている意味がわからないと、燐は唇を引き結び首を傾げた。


「それともうちは来ぇへん方がよかった?足手纏いになるから」


悲しげに目を伏せる咲に燐は焦った。音を立てて身を起こし、咲に向き直ると慌てて否定の言葉を紡ぐ。


「まさか!お咲ちゃん来てくれて嬉しいよ。宗明のあれはいつものことだもん」

「あれ?」


きょとんと首を傾げる。幼子のようにかくんっと傾げる様はとても十八の娘とは思えない。


「ああいう言い方。照れ隠しなんだよ」

「そうね…心得てます」


今度は全てお見通しとばかりに婉然と微笑む。その先程との凄まじい差異に燐は少なからず息を飲んだ。


「そっ…か、お咲ちゃんの方が付き合い長いんだもんね」

「そやろか?うちの方が宗ちゃんと一緒におる時間は短いんよ?」


そのまま腰をずらして口元まで湯に浸かってしまう。ぷくぷくと息を吐き出し、泡を立てては爆ぜさせた。


「でも!だって宗明いつも寝る前にお呪いしてるんだもん」


パシャッと音を立てて掌を水面に打ち付ける。弾けた飛沫を嫌って咲は身を起こした。


「何の?」

「『明日もお咲ちゃんが心穏やかで過ごせますように』って」

「えー?『あの』宗ちゃんが?」


信じられないと咲は訝しんだ。眉を寄せ、難しい顔をしてみせる。


「うん。『あの』宗明が」


全く以て真剣に燐は繰り返した。暫し無言で見詰め合う。二人が笑い出したのは同時だった。


「何や、にわかには信じられへんねぇ」


言い終えて尚、クスクスと肩を震わす。


「でも宗明、本当にお咲ちゃんのこと一番大事に思ってるよ」


燐も涙を浮かべながら更に言葉を続ける。


「うん。そやね」


咲は謙遜も卑下も無く。


「えー、それって惚気?」

「そ!惚気てんの………………………(いつまでこのままでおれるか判らないもの)」

強気な笑顔の裏側に本音を貼り付け、呟きを湯気に隠した。


「え?なにか言った?」

「なぁんにも。そろそろ上がろ?逆上せちゃうわ」

「………んー」


咲は屈託無く笑ったが、一瞬の昏い瞳を見落とさず、燐は眉根を寄せた。





大浴場の暖簾脇の長椅子に蘭は横たわっていた。そしてその周囲を三、四人の男と女中が取り囲んでいる。


「坊や、大丈夫かい?ほら、水だ」

「うー……………ん」

「お嬢さん冷たい水と手拭いを」


赤い顔で横たわる蘭に湯呑みを差し出した壮年の男は女中に必要なものを持たせた。


「はい、只今」


パタパタと上から横から団扇で蘭を扇いでいた女中の一人が立ち上がり、忙しなく言われたものを取りに走った。


「大丈夫かぁ?」

「ハハハ。若いなぁ坊主」


様子を見ていた男たちは笑った。


「は………おじさんたち、ありがと」


熱に浮かされながら蘭も笑う。


「オウ!」

「気にすんなぃ」

「いいってことよ」


気のいい男たちは呵々と笑い、互いに肩を叩き合った。


「すみません、お待たせいたしました!」

「あれ?蘭!どしたの?」

「蘭ちゃん?」


水を張った盥(たらい)を持ってきた女中の為に男たちが人垣を割ると、その隙間から様子を見ていた燐がその中心人物に驚いて声を掛けた。


「っ…………燐、お咲ちゃん……」


いかにも不味いところを見られたという表情で蘭は目を見開き、そして逸らした。その間にも最も会いたくなかった人物は人垣を縫って蘭に近づいてくる。


「ごめんなさい、何?蘭、逆上せたの?」

「あはは」


燐は蘭の前に進み出ると首を傾げて訊ねた。返答に窮した蘭はまさに笑って誤魔化すという暴挙に出る。


「蘭ちゃん、笑い事やあらへんでしょう?皆さん、どうもお手数おかけしました。おおきに」


よっぽどのことでない限り滅多に声を荒げない咲が厳しい声を出したのに燐も蘭も首を竦めた。


「いえいえ」

「気にするほどのことじゃあありませんよ」

「よくあることですからね」


余りにも気を落とした様子の子供たちを見かねた男たちは咲を宥めるかのように声をかけた。


「ほんま、おおきに」

「あなた、この坊ちゃんのお母様…ではありませんね。お姉様ですか?」

「まぁ、そんなところです」


申し訳なさそうに深く頭を下げる咲に、蘭を看ていた壮年の男が尋ねた。


「ただ湯に長く浸かり過ぎただけでしょう。水を飲ませて少し安静にしていれば大丈夫ですよ。大事はありません」

「もう、何から何までありがとうございます」


心配無用と笑う男に咲は再び深々と頭を下げた。


「蘭てば暑いの苦手だもんね」

「あらあら、なのに逆上せるまで浸かってたの?」

「………………僕にもイロイロあるんだよ」


 逆上せた原因を推測する連れの女二人に対して、蘭は口を尖らせて呟いた。深刻そうに語る蘭を囲む集団は一瞬呆気にとられ、互いに顔を見合わせると再び中央の少年を凝視し、笑い出した。


「あっははは!」


 蘭は赤い顔を更に上気させて顔を顰めた。しかしそれで一度沸いた集団が鎮まるわけはなく、かえって煽る結果となることは明白である。付き添っていた男たちはそれこそ腹を抱えて、女中や咲はクスクス笑いをとめられない。
そんな中、咳払いを一つして呼吸を整えた壮年の男は蘭に向き直った。


「いいかい、坊や。私はしばらく泊まっている予定だから、もし具合が良くなかったらいつでも訪ねておいで。木蓮の間だよ」


 男は蘭にそう言うと着物の裾を正して立ち上がった。まさに中肉中背といった格好である。年の功は四十後半から五十半ばといったところ。肩の高さで切り揃えた髪の毛は少なくはない白髪が混じり、前髪から耳の上まで半分を一つに束ねている。


「おじさん、お医者様なの?」

「そうだよ。といっても薬の研究が私の主な仕事だがね」

「へえ〜」


男の言を受けて燐が訊ねた。医者である男は笑って答えた。


「名は若さを兼ねるで兼若(けんじゃく)。若先生なんて呼ぶ人もいるがね。もう若くないのに滑稽だろう?」


自己紹介の際にはいつもそう言うのだろう。熟(な)れた口調で自己紹介をする男は、確かに医者というにおいがすると双子は思った。


「でも私たちに比べたらよっぽど…」

「燐…!」

「え?」


明らかに外向き用の台詞につい乗せられ、思わず不味いことを口走る燐。慌てて蘭が身を起こしそれ以上を食い止める。兼若は途中で遮られた言葉の意味を図りかねて首を傾げた。


「あ、う…そう!若先生ってお父さんがお医者様だからじゃないの?」

「確かに私の父は医者だったね。うん。そうかもしれないなぁ」


苦しい言い訳に塗れた燐を咎めることなく、兼若はよく分かったねと笑って燐の頭を撫でた。擽ったそうに首を竦める燐に眼を細めながら、兼若は起き上がった蘭にも意識を回す。


「坊やはもう大丈夫なのかな?」

「うん。兼若先生、ありがとう」

「ほんまにありがとうございました。みなさんも」


 まだ僅かに目元をぼんやりとさせた蘭が礼を言うのに続いて、咲は再度頭を下げた。それを潮時の合図と、集まっていた男たちは蘭に声を掛けながらその場を後にし、女中たちはそれぞれ仕事に戻っていった。兼若は後片付けをしていた女中の肩を叩くと、蘭の床に水差しを置くよう言い置いて自室へと去っていった。


「お客様、お部屋はどちらでございますか?」


 兼若に言付けられた女中は早速三人に部屋を確認した。蘭が最上階の菊の間だと言うと、後ほどお持ちに上がりますと言って女中は慌しくその場を辞した。蘭の世話を焼いている間にも仕事が溜まっていたのだろう。 それを見届けた三人も部屋に戻ることにした。今度は湯冷めでもしたのでは元も子もない。三人とも多少のごたごたはあったものの、比較的穏やかに過ごせそうだと思っていた。そのときまでは。
しかし、穏やかだったのはこの夜までであったのである。






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080704 第1稿

背景画像 空と海の鐘 様


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