そして歯車が回り出す。



『承 人〜捌〜』




「負け?何の話だ」


訝しげに宗明は目を細めた。


「何の話って、僕らをどっちが早く見つけられるか勝負してたんだろ?」


何を言っているのかわからないといった態で蘭は目を丸くした。


「アー…、そうだったなぁ」

「嘘!忘れてたの?信じらんない」


全く興味なさげに目を細めて遠くを見つめながら宗明が答えると、燐はつまらなそうに声を上げた。


「ほら、燐、待ちなさい。誰にだって忘れたい記憶の一つや二つあるものよ」


そんな中にっこりと微笑んだ山吹が燐を窘める。


「でも何も賭けなかったのはちょっと惜しかったわね」

「何?」

「随分息巻いてたけど、やっぱり私の勝ちだったわ」

「何言ってる?引き分けだろう」


先程から連発される山吹の勝利宣言に疑問を抱いた宗明は食ってかかる。


「引き分けてなんかないわ。私の圧倒的完全勝利よ」


山吹は宗明の意見など意に介さず、再び繰り返した。


「だってお前、箱根…」


もう殆ど状況が理解出来ていない宗明は胡乱に目を細めた。


「箱根ぇ?」

「何それ?」

「それはお前…」


あくまで否定する双子にかくかくしかじかと事の次第を説明すると、一人を除いてどっと笑いが起きた。


「あんた、それは妄想っていうのよ!」

「なんで突然箱根に行くなんて思うんだよ?脈絡が無いにも程があるだろ!」

「その思考回路がわかんないよ!私たち理由も無くそんな遠くまで行かないもん!」


双子と山吹が腹を抱えて笑い転げる中、咲はゆらゆらと視線を泳がせたが誰一人としてそれに気付いた者は居なかった。


「はぁっ…は、…っと信じらんない!いい?事の顛末はこうよ」


眦に浮かんだ涙を拭って山吹が勝利を手にした仔細の説明を始めた。





宗明が去り、階段を踏み鳴らす音が完全に消えてから山吹は行動に移った。


「さて、っと。じゃあ咲?」

「はい」

「あたしも行って来るから宗明になんて言うのか、考えておきなさいね」


ビクリ、咲は肩を震わせた。


「…ねぇ吹ちゃん、やっぱり」

「咲。もう、あの頃には、戻れないのよ」


言い淀んだ咲を制して山吹は続ける。その声音は幼子を諭すように穏やかで、しかし言い逃れを決して許さない厳しさを滲ませていた。


「…でもっ」

「いい?もう守ってもらうだけじゃ足りないの。それに、これはあなたが決めたことよ」

「…」


事実を突き付ける言葉に咲は口を閉ざす。


「答えはどちらでも構わないわ。どうしたいのか、考えなさい」


言葉を切って、山吹は続ける。


「ただ、何でも後ろ向きに考えるのはやめなさいね。宗明には『幸運』がついてるんだから」


それだけ言い残して山吹は部屋を後にした。振り向きざま見遣った咲は深く俯いていた。



「さぁって、いっちょ捕まえてきますかね」


手鞠屋を出たところで軽く伸びをして山吹は歩き出した。一つ二つと角を曲がり、着いた先は錦町番所。


「ごめんくださーい」


 山吹は戸口に立って声を掛けるが誰も出てくる様子は無い。中から響く大音声に掻き消されてしまい、届かないらしいので無理も無い。土間には同心と思しい男が伸びているのだが、果たして起こしても良いものかと思案していると、喚声に耳慣れた声を聞きつけた。山吹は想定していた以上にあっけない幕引きに、呆れ五割・安堵三割・不満二割といった心境で一つ息を吐いた。そして伸びている同心にお邪魔しますよと言い置くと(しかし彼には聞こえる筈もなく)、横たわる彼を放置して奥へと上がって行った。





「むぉい」


鰈の煮付けから目を逸らさずに宗明が話の腰を折る。


「何よ?人が説明してるとこに口挟まないでよ。それにあんたがそうやって喋るからこの子達が真似するのよ」


差し出された茶碗を受け取り、且つ飯をよそいながらも山吹は宗明を窘める。


「今は関係ないだろう」

「あるわよ。まずあんたの躾から始めなきゃいけないじゃない」


 再び茶碗を受け取りながらも、決して山吹とは視線を合わせようとはしない宗明。そして溜息混じりに肩を竦める山吹。二人が醸し出す空気が熟年夫婦のそれであることに気付いた双子は、背後に薄ら寒いものを感じて知らず片割れとの距離を詰めた。


「…そうかい。でも何で番屋に行ったんだよ」

「だって迷子を闇雲に捜したって見付からないでしょう」

「…」

唖然として声もない宗明と双子。冷ややかな笑顔は主に前方に向けられている。


(迷子だって。私達迷子だって)

(やっぱ、山吹怒ってる?)

「燐、蘭、わかったの?」


苛烈なる笑顔に晒され、双子は半身をピタリと合わせる。重ねた掌は既に汗が滲み気持ちの良いものではなかったが、何やら離すことも出来ず、二人はただ狂ったように首肯するばかりであった。





 山吹は声のする方へ進む。しかし、建物に反響して八方から聞こえてくるのでほぼ勘に頼る他なかったが、元々それほど広い敷地ではなかったのが幸いしてか、すぐにまた同心を見付けることができた。


「ちょっとお伺いしたいんですけど――?」


 山吹は声を掛けかけて口を噤んだ。同心の様子が奇妙しい。拘束中の人々は奥の離れに居ると思う(事実声が聞こえてくる)のだが、その同心は通用門の柱の足元にうずくまっているのだ。よく見れば顔色も悪いようだ。


「大丈夫ですか?」

「うわぁっ!」


山吹が肩に手を伸ばすと、男は弾かれたように悲鳴を上げてその手を払った。


「!…あなた、大丈夫?」


 今度は膝をついて慎重に同心の顔を覗き込んだ。その同心はと言えば、突如として現れた見ように因っては女性的と言えなくもない麗人をすり抜けた遥か向こうを見詰めていた。そしてゆっくりと焦点を合わせ、ふいに我に返った。


「ああっ!すいやせん!俺としたことが…」

「いえ、お気になさらず。ところで、ここに子供が二人来てないかしら?」

「…子供?」

「ええ。鴉の濡れ羽色の髪の娘と錆金色の髪の坊やなんだけど」


山吹が問うと同心は肩を震わせて目を瞠った。


「…あの化け物ですかぃ?」

「…化け物かどうかは分かりませんけどね。お心当たりがあるのなら間違いないと思います」


明後日の方向を眺めながら山吹は嘆息する。この男の様子を見ればあの二人が彼に生涯忘れえぬであろう類の傷を負わせたということは明々白々で、山吹は呆れて頭を振った。


「…引き取ってくれるんですかぃ?」

「ええ、まぁ。そのつもりですけど」

「良かった!じゃあこれを」


山吹が肯定すると、男は喜色満面で鍵束を差し出した。


「左の突き当たりの二重扉の中なんで」

「…いいんですか?」

「ええ!餓鬼ですし、保護者が居るんなら構いやしませんよ!」


まるで呪いでも唱えるかのように剣呑な雰囲気を漂わせ始めた男を目の当たりにして、山吹は再び嘆息した。


「解りました。一つ、覚えているといいわ。あの二人が何をしたのかは知りませんけど、《あなたは何もされていない。あなたが気に病むことは何もない。あなたの日常は恙無く流れていく》わ。忘れないで」

「ハァ」


 同心の男、喜八は話の途中で瞳に何やら真剣な色を纏った眼前の得体の知れない男を訝しげに見詰めた。しかし、男にそう言われてから二人の子供に唆されて胸の裡に渦巻いていた不安感や恐怖感が、きれいさっぱり、とは言わないまでもそれまでと変わらない程度には落ち着いていた。そして『彼女』はにっこりと(まるで花が綻ぶようにそれはそれは女性的に)微笑むと、颯爽と子供の入れられている拘束部屋へと歩んで行った。




 山吹は渡された鍵で南京錠を開けていた。


「いくつあるのよ…」


開けた錠は既に六つ。上から順に全部で八つ鎖で拘束してある。その上まだ一枚目の扉ときた。山吹は幸せが逃げると思いつつも溜息を禁じえなかったが、黙々と開錠し続け(二枚目の鉄扉は錠前が三つであった)、束の鍵を使い切って漸く部屋の封印を解いたのである。
山吹が鉄扉を開くと中の二人は既に縄を抜け出しており、身仕度を整えてこちらを見遣った。


「…はっ。やっぱりね」

「何?やっぱりって」


思わず呟いた山吹に反応して双子は首を傾げた。その予想と違わぬ二人の様子にやはり拍子抜けた感は否めず、山吹は知らず幾度目かも知れぬ溜息を吐いた。


「何でもないわ。まぁこれであたしの勝ちね。まだ四半も経っちゃいないのに」

「勝ち?」

「何のことさ?」

「こっちの話。さ、行くわよ」


 そう言うが早いかくるりと背を向けて立ち去る山吹。双子は互いに顔を見合わせると急いでその後を追った。途中、先刻痛い目を見せた同心が山吹に何事か耳打ちされていたのだが、その後彼が双子に向けた視線には先程のような怯えの色は見えなかった。不思議に思った蘭は、山吹に追いつくとその背に向かって問い掛けた。


「なぁ、さっきあいつに何て言ったんだ?」

「別に何も」


素っ気なく応える山吹に燐は訊ねる。


「吹姐怒ってる?」

「いいえ。つまんなくって呆れてるだけよ」

「それって怒ってるんじゃないの?」

「怒ってないわよ?でも知ってた?あたしって厄介事嫌いなの」


山吹は立ち止まり、肩越しに振り返ると目を細めて双子を見下ろした。その射抜くような視線は絶対零度の鋭さで二人を貫いた。


「「…ごめんなさい」」

「別にいいわ。解ればね」

((やっぱり怒ってるーーー!!))


思わず謝罪の言葉を口にする双子は蛇に睨まれた蛙の如くダラダラと冷や汗を流しながら、晒される猛吹雪のような視線に耐えていた。一方、興が乗ってきた山吹は更に双子を問い詰める。


「それよりあなたたち、あの子に何したの?あんなに怯えて」

「え?それは吹姐が…」


この期に及んで冗談を口端に乗せようとする蘭を、氷点下の微笑が襲う。


「あたしが、なぁに?」

「ナンデモナイデス」


すっかり萎縮した蘭は言葉を切る。


「〜〜っ、ちょっと幻を見せただけだよ。…火だるまになる、みたいな」

「…あっきれた。そんなことしても何にもならないじゃない」

「少なくとも僕の気は紛れたよ」

「イイご趣味で」


蘭の仄かに暗黒な発言を諫めるように息を吐きつつ山吹はそっぽを向いた。


「だって僕たち、あんな所に入れられる事なんてしてない!」

「簪なんて盗んでないもん!」

「誰かがぶつかってきたんだ!」

「そしたら知らない簪が落ちてたから拾ったら…」

「引っ張られた訳ね」


直情型の双子を宥めるべく、山吹は二人を引き寄せた。ぽすりと、大人しくその腕に収まった所を見ると単に拗ねていただけのようだ。


「絶対、僕らじゃないよ」

「そうね」

「吹姐、信じてくれる?」

「勿論よ。でも、本当にやってないのね?」

「「うん」」

「なら、信じるわ」


山吹は消え入りそうな声で頷いた二人の肩を叩き、目前に迫った手鞠屋へと促した。


「ああっ!お前ら!」


そこへ掛かる怒声。同心を引き連れてやってくる男を双子は睨み付ける。


「誰?」


詳しい事情を把握しない山吹は双子に訊ねる。燐は口を尖らせたまま前だけを見据え、蘭が山吹の問いに答える。口調はこれ以上ないというくらい不機嫌だ。


「僕らを番所に連れてったおっさん」

「こいつぁどういうことなんでしょうかね…………姐さん?」


三人の前に立ちはだかり、先ず口火を切ったのは壮年の同心であった。彼が暫く逡巡した後に付けた疑問符はむしろ山吹の三人称に対するもののようである。


「いえね、うちの子が濡れ衣だっていうものですから?事情を話したら友好的に出して頂きました」


至ってにこやかに応える山吹の様子に、大店の番頭は口元を引き攣らせる。

「おい、あんた!これはどういうことなんだ?」

「旦那、俺に聞かれても…」


ずっとあんたと一緒に検分してたんじゃないかという同心の意見は抹殺された。怒りっぽい人間に話を聞かせたいのなら先ず相手の言葉が途切れるまで聞くのが最良だ。
同心は反論したいのを堪えて番頭の言い分を聞くべく話を促そうとした。

が、それも直ぐに打ち砕かれた。

「あなた、この子たちが犯人だっていう証拠があったから番所に連れて行ったんですよね?」


子供を抱えた大男が番頭を問い質していた。しかもあからさまに棘のある口調で。


「そうに決まってるだろう」


こちらも明らかに不機嫌な態度で応じている。しかし、同心は内心冷や汗して事態を見守る以外なかった。


「じゃあ、その証拠は何なんです?」

「それは、その餓鬼がウチの商品を…」

「持っていた、だけですよね?ちょっと決めつけるのが早くありません?それともあなたはこの子たちをあなたの店先で見たんですか?」


山吹の言こそ決めつけも甚だしかったが、双子も同心もそれは思うところだったので横槍を挟むような真似はしなかった。一方の番頭は高圧的に出られてたじろいだ。


「…いや、見ては…」


思わず口を濁す番頭を、山吹はここぞとばかりに責め立てる。


「いないんですか?それはそれは、随分と早計ですね!」

「しっ…しかしっ、この餓鬼らがやってないっていう証拠も無いじゃないか!」


言葉に窮した番頭は気圧されつつも反論を続ける。どうあっても双子を犯人にしたいらしい。
同心、それから燐と蘭の両名は番頭の余りの食い下がりっぷりに、いっそ拍手でもしたい心境になっていた。無論、そんなことをする筈も無いが、あくまでも敵ながら天晴れとでも言うのか頑迷を遥かに通り越して清々しいまでの頑なさに溜息を漏らす程である。


「ふん…そうですね。では、どうでしょう?此方が真犯人を見付けますからそれで手打ちにしていただけません?」


片や全くと言っていいほど余裕の無くなった番頭に対して、片や笑みを深め余裕の表情を崩さない山吹は限が無いと判断したのか、手打ちの条件を提示した。
必要以上に下手に出た対応に同心は目を見開いた。


「ちょ…あんた!」

「別に、あたしゃウチの商品が無事なら何でも…だが、期限は三日後だ。超えたらあんたたちが犯人だ」

「旦那!」

「ええ。構いませんよ。それじゃ、そういうことでお願いしますね」

「…ああ、わかりましたよ」


 必死の制止を振り切り、話し合いを終えてしまった者たちを宥める術を持ち合わせない同心は、去り行く両者を止めることができなかった。そして頭を掻き、面倒なことになったと溜息を吐いた。その後、一先ず考えるべきはあの二人を出してしまった喜八への仕置き、と番所へ戻るべく足を踏み出したのだった。
丁度、暮れ六つを報せる鐘が鳴り始めた。






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080501 第1稿

背景画像 空と海の鐘 様


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