彼の人は言った。絶望は幸福の種であると。



『起 〜肆〜』



 ゆっくりと、晴明の身体が地面に引き寄せられていく。私と蘭は声も無く、ただ、その光景を見詰めていた。

とさり。

 枯れ果てた草を圧し潰して横たわる彼の着物は広く焦げ茶に濡れそぼり、元の縹色を見留めることも難しい。しかし、そんな彼を目にしても不思議と私の心は凪いでいた。
 恐らく、嘗てない衝撃に精神の許容量が限界を超えていたのだろう。否、それ以上の驚愕を覚える事柄に心を捕らわれていたのだ。倒れた彼の前に立ちはだかる巨大な黒い影。その正体は、彼が庇った幼子だった。年の頃はおよそ七つ。体格も私や蘭とさして変わらない至って平均的な彼女の背後には、濃度の高い黒い靄が立ち込めていた。―――これこそが件の瘴気の源である。―――その許容量を遥かに凌駕する瘴気に当てられて吐き気がする。少女が虚ろな黒い眸(ひとみ)を細めて嗤うと、靄は彼女の足元で影となりズルズルと何者かの姿を成してまるで水面から引き上げられるかのように這い出してきた。立ち上がると八尺五寸はあろうかという上背は、その足元の少女―――およそ三尺二寸―――と比べるまでもなく巨大だった。

靄が影となり、影が実体を現したもの。二本の角と長い爪、鋭い牙に硬そうな赤黒い皮膚。異常に長い腕、均等でしなやかな筋肉のついた躯。
それは鬼の形をしていた。


「…っ!?」


 蘭が身じろぎして息を呑んだ。ああ、この子はまだ大丈夫だ。逃げられる、と、私はどこか遠いところで考えていた。(既に自分が逃げられないと思っているあたり、瘴気に当てられすぎてどうしようもない。)


「ァ、ン、も…いよ」


情けないくらい掠れた声だった。


「だめだよ」


私を抱き締める蘭の腕に力が篭る。


「…だって、もうボクにはリンしかイないんだよ?」


さっき私を慰めたのとは正反対の声音に少し笑う。


「でも、ニげなきゃ」

「リンもイッショじゃなきゃヤだ!」


ぎゅうと抱き締められて息が詰まる。肩に顔を埋(うず)められて、微かに触れる髪の毛がくすぐったい。


「ヒトリに…しないでよ。ヒトリで、イかないでよ、おネエちゃん…」


 嗚呼、どうしたらいいのだろうか。
見えぬ現実を怖れる私と、見通せぬ未来に怯える蘭。
真逆の性質。真逆の双子。
いっそこのまま溶け合って、一人になれたらどちらかを落とすことなどないのに。

 ゆっくりと、しかし確実に実体化してゆく鬼。
破壊(こわ)すことに特化したしなやかで強靭な肉体。鋭く伸びた角、爪、牙。そしてとうとう紅く輝く眼(まなこ)が私たちを捉え、その巨大な爪を振り上げた。

ギュっ。固く目を閉じる。

ゴウッ。鋼鉄の爪が空を裂く。

ヒュッ。どちらともなく息を呑む。

そして次に待つのは身を斬られる痛み…








ではなく。


「前鬼!後鬼!今だ!!」

「「御意!!」」


ドシュッ。ギィイアアア゛ア゛ア゛アアアアアア゛ア゛アアア!!!!!


おぞましい貫刺音と耳を聾する太い咆哮が響き渡った。

 驚いて目を開くと、角と爪、口にびっしりと呪符を貼られ、前鬼と後鬼の光槍で両脇から腹を貫かれた鬼の姿があった。貫創からはシュワシュワと音を立てて瘴気が漏れ出している。


「ハアっ!」

「オリャアっ!」


前鬼と後鬼がそれぞれ槍を左右に薙ぐと、鬼の胴が足に別れを告げた。同時に耳を劈く絶叫が木霊した。堪らず蘭が頭を抱えて蹲る。―――蘭は耳がよく利くのだ。―――支えを失った私は重力に従って再びぐらりと傾いだ。そして、そこからは鮮血を吐き出しながら崩れ落ちる晴明がよく見えた。
目が眩む。視界が濁る。どろりと何かが溶け出して、躯が軽くなった。


「蘭!」

「燐!?」


前鬼と後鬼が焦ったように私たちの名を叫んだ。





「リン、リン、ダイジョウブ?」


仰向けに横たわる私を蘭が覗き込んでいる。


「…ん」


ぐるり。頭を回して周囲を確認する。少し離れたところで前鬼と後鬼が護封結界を張っている。晴明の姿は、無い。


「…セー、メは?」


ぼんやりする意識の中、私は彼を探して身を起こした。


「あっ…」


蘭が慌てて私の肩を押さえた。が、遅かった。自分を見下ろす形になった私は瞠目した。

そこには目の眩むような赤、赤、赤。
未だ鼻こそ利かないが、見ただけで判る。この躯はこの上なく錆臭い。吐き気がする。そして蘇る断片的な映像。忌まわしい事実(あくむ)が、戻ってくる。


 少女の喉笛を切り裂いて、この爪を、この髪を、全身を温い液体で汚した自分。
気管を裂かれた少女はヒューヒューと喉を鳴らしている。仰向けに倒れていく彼女は無音の声で「ありがとう」と言い、微笑みながら事切れた。彼女の体は蒸発して骨一つ、欠片すら残らず、血に塗れた着物だけが少女の存在を示していた。取り乱した私は酸素を取り込まない浅い呼吸を繰り返し、疼痛を訴える頭を振った。

私は、私は、一体何をした?

 一瞬たりとも忘れてはいない。眼前に迫ったおかっぱ頭。背後に漂う黒い瘴気。見開かれた大きな眸(め)。驚愕に揺らぐ瞳。左から右に薙ぎ払った右手。右手に感じる存外軽い感触。掻き切った細い首筋。少女の温い体温。真一文字から噴き出す赤。
目を塞ぐ、赤。赤。
赤。


「あっ…、は…ハァっ…ハァっ…」


 動揺して上手く呼吸が出来ない。喘ぐように吸っても喉が鳴るばかりで、ちっとも酸素が入ってこない。目の前が揺れる。世界が廻る。
ああ。ああ、私は一体何を…。


「燐…」


放心していた私を引き戻したのは、げほげほと咳き込みながら私を呼ぶ彼の声だった。既に彼の顔には血の気が無く、式神の片方に抱き起こされながら奥歯をカタカタと鳴らしていた。


「燐…すまなかったな。怖かったな」


私は彼の懐に飛び込んだ。彼の身体は小刻みに震えて、僅かな熱を感じ取ることさえ難しい。


「セ、セーメ…ワタシ、ワタシ…」

「すまなかったな、私が…」


彼の声はどんどん小さくなる。


「やだぁ!!シなないで!シんじゃやだぁ!」


そう言って彼に縋り付いて泣いた。死に行く身体を持て余した晴明は、最期に一言笑いなさいと言った。

そして、再び喚び戻されるまでの記憶は、深い深い闇の中に。





「燐!危ない!!」

「へ?」

 少年の声によって突然意識を浮上させた少女は、一瞬遅れて周囲を確認した。しかし、少女が周囲に意識を遣るよりも、少年が少女に手を伸ばすよりも速く、《彼女》は少女にぶつかった。


「ったぁーい!」


燐は碌な受身も取れずに前のめりに転んだ。《彼女》は既に走り去って人混みに紛れてしまい、姿など見えない。


「燐!大丈夫!?」


蘭が慌てて駆け寄ると、燐は腕を擦り剥いたようで袖をたくし上げて内肘を眼前に掲げた。すると振袖の裾からシャリンと音がして飾り簪が零れ落ちた。


「何…これ?」

「燐のじゃないね」

「うん」


揃って簪を見つめていると人波を掻き分けて壮年の男が二人の前に現れた。そして燐の持つ簪を見るなり叫んだ。


「お前らの仕業だな!?糞餓鬼共!!」






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080204 第1稿

背景画像 戦場に猫 様




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