転機はいつも唐突に訪れるものだが、それはまさしくその通りであると認めざるを得なかった。
晴明が、死んだ。
『起 咲〜参〜』
あれは、一体何が間違いだったのか。
彼の傍を離れたのがいけなかったのか。
或いは休憩など取らなければ良かったのか。
若しくはあの村に立ち寄ったことが原因だったのか。
はたまたそれ以前の問題だったのか。
先見が出来ない以上私たちがそれを知る由など無いのだが、それはあまりにも理不尽だと思わざるを得なかった。
何故彼が、と。
薬草を調達していたのだ。先だって立ち寄った村で怪我をした彼に使う薬が切れてしまいそうだったから。
一人で先行していた私に、彼は危険だと言う理由で式神をつけた。それ自体はいつものことだったし、彼は筆頭式神の前鬼と後鬼との通信回線を持っていたので(驚くべきことに!)、何があっても平気だと思っていた。
そう、信じていた。
しかし、彼が行ったそれは私にとってはある種裏切りにも等しい行為だった。
「――!…?」
「どうした?燐」
ぴょこんと立ち上がり、もと来た方角に目を凝らした私を、式神が訝しげに見遣った。
「燐?」
「…ナンでもナい…」
何やら落ち着かなかった。それが不安なのか期待なのか、その胸騒ぎを表現する言葉を私は持っていなかった。
「ねー、ゼンキちゃん」
耐え切れなくなった私は、とうとう式神の力を借りることを決めた。
「何だ?用が無いなら薬草を採らぬか」
「…セーメーナニしてるの?」
「休んでおられるだろうな」
薬草を採るのに忙しい式神は、その手を休めることなく大して興味もなさそうに答える。
「ホントウに?」
「ああ」
「ウソじゃない?テキトウにユってない?」
式神は尚も食い下がる私を胡乱気に見詰めた。
「燐、お前一体どうしたのだ?先刻から落ち着かんで」
「わかっ…な…」
言いようのない違和感を表すことが出来ず、張り詰めた涙腺が決壊する。
「わかった、わかった。訊いてやるから泣くでない」
「ふっ…う、うん」
泣きじゃくる私を宥めるように式神が回線を開く。
「…む?どういうことだ?」
通信中の式神が訝しげに呟いた。
「え?」
「繋がら…ああ。大丈夫だ、燐」
「ひくっ…ダイ、ジョブ?」
何が大丈夫なのか、そう告げられる理由が分からずに問い返した。
「晴明様は眠っておられるようだ。やはり疲労が溜まっていたのであろう。起こさぬようにもう少し奥へ行くぞ、燐。晴明様と回線が繋がらない遠くまでな。我らの声は少々響く」
小賢しい式神の半ば建て前とも取れる答えを、無知な私は言葉通りに受け取ったのだった。常の知者の如き居丈高な口調が震えていたのにも気が付かなかった。
「うん!」
こくりと頷いた私は何の躊躇いもなく差し出された式神の手を取ったのだった。
森へ入ると式神は私に花を探すよう促した。しかし、私の興味は既にそこにはなく、式神の指示を聞かず薄暗い木々の合間の光の差し込む箇所を目指して駆け出していた。
飛び跳ねるように拓けたそこへ足を踏み入れた瞬間、芳醇かつ濃厚な香りが私の鼻腔を刺激した。その特徴的な甘い芳香。
百合だ。
周囲に首を巡らす。香りの源はすぐ側に有った。左手の日陰の茂みにひっそりと、しかしはっきりと存在を主張していた。その花弁は鮮やかな紅(くれない)。血のような赫(あか)。だが通常、百合の花に血に塗れたような花色は有り得ない。推測するに、恐らく毒されたのだろう。強い瘴気に。
そう、瘴気に。
ハッとした。
そして同時に流れ込んできた巨大で邪悪な力の奔流に眩暈がした。
それが先程から感じていた違和感の正体だと気付いてしまった私は愕然とした。強大な瘴気の源がこの近くにある。その証拠にとてつもなく鼻が痛いのだ。それこそ、このまま用を亡くしてしまいそうなくらいに。
涙が滲む。
身体が慄える。
痛い。
痛い。痛い。痛い。
握った拳を袖で包(くる)んで鼻を押さえた。何も考えられない。しかし、グラグラする頭は拒絶反応を起こす身体に影響されることなく、散りばめられた点を繋ぎ合わせていった。
ひらめいた解えは、つまりこういうことだ。休憩中に遊んでいた私たちが気付くよりもずっと前に、襲撃されることを予見した彼は自分から私たちを引き離し、秘密裏に事を処理しようとしたのだ。そしてそのために私達の感覚を曇らせ、些事には気付かぬようにして。彼にとっては幼い私たちを巻き込みたくないという親心なのかもしれないが、それを命約に生きる私たちにとっては存在意義を奪われたも同じこと。そうだとするならば、言い知れぬ不安に駆られた私が彼の安否を問い質したときに見た、前鬼の奇妙な言動にも辻褄が合う。そして突然感度の上がった感覚器官から、彼が現在どのような状態にあるのかに思い至った私は、暗に役立たずだと言われている気がして(実際問題全く役に立てる自信はないのだが)、どうしようもなく泣きたくなった。
「う…あぁ、」
「あ゛ああ」
「ふっ…うぅ…っく…」
非力だと、認めざるを得ないことが悔しかった。
何より、側に居られないことが恐ろしかった。
全身で感じる禍禍しい圧力に屈した。涙で翳む目で前を見遣れば、血色の百合が腐れ落ちるのが見えた。枯れてゆく茂みの中、蹲って頭を抱えた。麻痺した鼻から手を離すと袖口が真っ赤に染まっていた。強すぎる刺激に耐え切れず、爛れて出血した粘膜に穢れた空気が触れて痛みが増した。しかし再び腕を持ち上げるどころか、もう指一本動かせそうになかった。躯が地面に沈み込むような感覚。不規則にしゃっくり上げ、涙も鼻血も止められず混濁する意識の中、ただ、彼の笑顔を思い浮かべた。
数刻か、或いは一瞬か。闇に閉ざされた意識の中、私を呼ぶ声が聞こえた。
「…――ィン!リン!オきてよ!」
「…ラ、ン?」
「リン、ダイジョウブ?ハナ、イタい?」
「…っん。セー、っく…メ、が」
ヒクヒクと喉が痙攣して上手く言葉が紡げない。それが情けなくてまた泣いた。この子も自分の置かれている状況が解っているのだろう。随分と落ち着いた様子で私の世話を焼く。崩れ落ちた身体を起こして、ぐしゃぐしゃの顔を拭いて、私が鼻が敏感なのを判って自分の着物の袖を破いて私に覆面して。年齢など私と変わらないのにちっとも取り乱す様子など見せない。私が少しのことで動揺するので、かえって冷静になったということも大きな要因だと自覚しているが、何となく居た堪れなくて居心地が悪かった。別に固執しているわけではないが、私の方がお姉さんなのにと思う。
「そうだよ。リンはおネエさんなんだから」
「だから、ガンバってセーメーのトコロにイこうよ」
「ね。おネエちゃん」
にっこりと、蘭があんまり綺麗に微笑うものだから、顔中酷い有様で薄ぼんやりとしていた私は、尚更自分が惨めに思えて泣きたくなった。
「ヒクっ…う、ん」
か細い声で肯定を表すと、蘭は私の涙を拭い、脇に腕を差し込んで立ち上がらせた。が、すぐによろけてしまうので、結局負ぶってもらうことになった。
「メ、トじてて」
そんな弟の指示にも素直に従ってしまう自分を自覚して、調子が狂って仕方がないと蘭の肩に顔を埋(うず)めながら思った。しかし、胸の内に渦巻く黒い靄は晴れず、また次第に強さを増す瘴気の重圧は着実に私を蝕んでいた。
不意に蘭が立ち止まった。
「な、」
「に―――?」
何事かと顔を上げた私を一瞬で降ろし、視界を塞ぐように蘭は私を抱き締めた。
「ちょ…」
蘭が振り解けない。何も言わずに身体に回された腕が縋っているように思えた。
「…セーメェ…」
今度こそ声を上げて泣いた。蘭に抱き締められていても力が入らず、身体を起こしているのがやっとだった。
ふと、背後から巨大な影が差した。私は驚いて顔を上げた。見遣れば蘭の顔は血の気が引き、青を通り越して白くなっている。しかし、呼吸は浅いが震えてはいない。えもいわれぬ恐怖に後ろを仰ぎ見ようとしたその時、蘭の表情が一変した。刹那、降りかかる温い液体。
薫る、鉄錆。
染まる、赫。
蘇る、鈍痛。
襲う、圧力。
其れ、則ち、絶望。
振り返ったその先で、男性ながら華奢な晴明が鈍い音と共に地に臥した。
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080107 第1稿
背景画像 戦場に猫 様
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